来なかった夏 ~鵜川兄弟(山田高)の情熱➁

…翌日、苅田工との初戦。部員のうち2人は集合時間になっても現れなかった。

試合は屈辱的な7回コールド負け。

攻撃では21のアウトのうち16個が三振。バットに当てるのがやっとで、1人の走者も塁に出すことはできなかった。

逆に苅田工にはいいように攻められた。打たれたヒットは35本。許した盗塁は34個。塁に出れば走る、そんな光景が繰り返された。中には一人で10個の盗塁を記録した選手もいた。

そうした中で、井川が鮮明に覚えているシーンがある。

1回裏の守備。投球練習のラストボールを受けた捕手が二塁に送球した。山なりでようやく届いたその球は、彼にとっては精一杯の送球であった。

それを見て、相手チームの応援席がドッと沸いた。

「あれはかわいそうでした。次の回からは、ラストボールを二塁に投げなくてもいいと指示を出しました」

井川は寂しそうに語った。

…….

この試合を最後に、山田高校野球部は部としての活動を停止した。

試合後には再起を誓ったが、その2日後、来年を目指すはずの練習に来たのは2人だけであった。挫折感から立ち直ることができなかった他の選手は「ひと夏のセミ」になってしまった。

しかし最後に、練習に出てきた2人、つまりあの試合で嘲笑の的となった捕手・鵜川洋と双子の兄弟である和則が、卒業するまでキャッチボールを続けていたという事実を、同校野球部の歴史の最後に付け加えておきたい。(おわり)

山田高校野球部 最後の部員たち。右端に立っているのが井川監督

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山田高校は、旧山田市(現在の嘉麻市)にあった小さな学校だった。グラウンドも狭く、十分な練習をするのは難しいだろうと思わせる環境だった。その小さな学校の一室で、若き監督・井川さんは丁寧に対応してくれた。

記事が掲載になったあと、掲載誌を井川さんに郵送した。しかし写真掲載のために借りていた大会パンフレットは、直接持参してお礼を言おうと手元に残しておいた。しかしその後、忙しさにかまけて返しそびれてしまった。パンフレットは今も手元に残っており、本棚の片隅にたたずむ背表紙が目にはいるたびに僕の心を重くする。

野球部の最後の夏となった2001年から3年後、統廃合によって閉校となることが決まり、6年2005年度には生徒の募集を停止、2007年3月をもって学校としての歴史にも終止符を打った。