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見た目のインパクトにノックアウトされた私は、その裏に隠された理性と狂気との間ある”精神の妖しい揺らぎ”に気が付かなかった。
ただの狂気はすでに眼前にあった。しかし、それは描かれたものに宿る、見た目通りの「一線を超えてしまっている描写」から来るものであった。
分かりやすいのは、「若冲と言えばこれ!」と言われるほど有名な、鶏とその羽文様の描写であろう。
羽毛の一枚一枚を緻密に描き上げるその技量には、ただただ舌を巻くしかない。まさに「神は細部に宿る」である。ぐぐぐーっと、絵の中に引きずり込まれる。しかし、全体としてもバランスを崩さないから、神業だ。
そして、鶏の目が、画面の緊張感を一層、ピーンと張り詰める働きをする。
この理性の宿らない独特の視線。この心の存在しない視線で何を考えているか分からない、そして朝と夜の間に鳴くことから、「生と死の間を自由に行き来できる異次元の生物」として、気味悪がられたり、恐れられたりした。
それがどれほどだったかは、平安末期の絵巻物「地獄草紙」の「鶏地獄」からも明らかだ(小林によるデジタル復元図。炎をまとった大きな鶏が、地獄に落ちた罪人を蹴散らしている)。
しかしそれはいわば、目の前で刃物を舌なめずりしてるとでもいうような、見た目からして狂っている姿といえるかもしれない。
でも、今回の「花丸図」はそのようなものではなかった。
もしかすると、もっと怖い描写なのかもしれない、と思っている。
(つづく)
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