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前回は、どれほど若冲の「花丸図」には狂気がはらんでいるか、
しかしそれが、背景が「金(きん)」になっているために、伝わってこない…
ということを、ちょっと熱くなりすぎるくらい語りました。
改めて読み返すと、前の晩に書いたラブレターのように、
少し恥ずかしい感じもします……。
しかし、言い訳になりますが、あれは私の言葉ではありません。
作品から発せられる言葉を、私は復元(を予測する目)を通して読み取り、
紹介していると言ってもいいかもしれません。
私は〝いたこ〟状態で、体を貸しているワケで、
実は、作品からの声を語っている、
つまり、作品から「助けて」という声を紹介しているのです。
そんなことを言っても、うさん臭く聞こえるかもしれませんね。
でも想像してみてください。
単純に考えても、今の日本美術は、非常にかわいそうな状態にあります。
それは、決して美術館の保存方法に対して、
あるいは伝統技や最先端科学の技術を使った修復方法に対して
批判しているわけではありません。
美術作品は、本当は、
「描かれたままのきれいな状態で見てほしい」のです。
それが、経年変化でひどく汚れたり不鮮明になったり、
今回のような後からの加工や修繕のために、
まったく違う姿に仕立てられたり……。
作品自身、不本意な姿をさらして立ち尽くしていることなっています。
ぼそり、ぼそりと語り始めた「花弁図」
色々なデジタル復元を手掛けた私には、
困り切った表情で年老いた素肌をさらすことになっている、
そしてかつては輝かしい美しさを誇っていた作品たちの、
「これは本当の私じゃない、本当の私をよみがえらせておくれ」
という声が届いてくるのです。
正直申しましょう。
今回の若冲の「花丸図」からは、正直声が聞こえていませんでした。
では、なぜ復元しようとしたのか。
それは、身もふたもないですが、若冲が人気だからです。
しかし、そんなことはいつものことで、
やっているうちに、声が聞こえてることも多くあります。
作品も、寡黙だったり、恥ずかしがり屋だったり、
実に個性豊かです。
じっくり構えて耳を傾け続けると、
ぼそり、ぼそり、とその心を打ち明けてきた「花丸図」。
その語りが、内に秘めた狂気ですから、なかなか伝わらないのは当然で、
「金」が背景でも作品としてはきれいだったのでなおさらです。
でも本当の声が心に届いた時の、驚きと面白さと言ったら……。
そんな、まるでハンニバル・レクターとの対話のような
スリリングな体験を、鑑賞会ではご披露できるかと思います。
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