–
亀屋薬局の創業者、衛藤七郎さんはある日、製鐵所からこんな相談を受ける。
「溶鉱炉に氷を投入すると、一気に鉄が冷え強くなる。そのための氷を供給する店をやらないか。製氷工場用の土地も貸与するよ」
ビジネスセンスに長けていた七郎さんはこの話を二つ返事で受け、1911(明治44)年に氷業を営む亀屋商店を設立した。世界に目を転じれば、辛亥革命が起こり、ノルウェーのアムンゼンが南極点に到達した年だ。
七郎さんは提供された土地にすぐに製氷工場を建てた。場所は祇園町の高台あたりで帆柱山の地下水が源だった。資料(千葉県立現代産業科学館調べ)によると、製鉄所は1日に約3,500トンの水を使用するという。これは日本の全産業が使う淡水の25%に当たる。
氷は文字通り飛ぶように売れた。4トン車で1日に何度も製氷所と取引先を往復する日々だった。
製鐵所誘致で八幡市は様変わりした。大正11年発刊の「門司新報」は、八幡市を「11万の民衆が便宜上ひとつに集まった、俄仕立ての一大労働都市」と評価している。
全国から集まった労働者のために映画館は常設館のみでも10館を数え、中央区の商店街には300もの店がひしめき、八幡のカフェーの7割がこの地域に集中したというから賑わいぶりが伺える。そんな街中を氷を積んだトラックが日に何度も行き来する。群衆に注意を与えるクラクションの音が今にも聞こえてきそうだ。
以来104年間、亀屋商店は氷専門店として営業を続けている中央町でも稀有な老舗だ。二代目は、七郎さんの次女カヤノさんの夫、磯崎雄吉さんだ。雄吉さんは出征していたため、店を継いだのは1949(昭和24)年だった。巷には「青い山脈」や「銀座カンカン娘」などが流れていた。
戦後も店は大盛況だった。製鐵所はもちろんのこと、家庭に冷蔵庫がない時代だったので、個人の需要も多かった。当時のお金で年商が2,000万円だったというから驚く。
「仕事は忙しかったけど、親父は社長として悠々な日々だったと思いますよ。だいたいいつも午前中で仕事を止め、あとは麻雀なんかしてましたから。大変だったのは従業員ですよ」
と笑うのは、三代目の磯崎和夫さん(68歳)だ。
店を継いだのは父親の雄吉さんが脳梗塞により63歳で急死したため。当時東京にいた和夫さんは急遽実家に戻されたという。1975(昭和50)年。岡山―博多間に山陽新幹線が開通し、第2次ベビーブームが起きた年だ。
「僕が継いだときは商売も小規模になってました。都市高速が出来て水脈がなくなり製氷工場も閉めましたし、溶鉱炉に氷を入れることもなくなってましたからね。昔の氷屋は夏の3ヶ月で1年食えるといわれてましたけど、今はとてもとても(笑)。ただ現在も製鐵所には氷を納めてます。従業員の熱中症予防のために、飲み物を入れるクーラーボックス用の氷を供給してます」
と和夫さん。
最後に、仕事をするうえで一番大事にしていることはと尋ねると、「いやいや、マジメに継いでないからそんなものないよ」と三代目は照れ笑いを浮かべた。
–
※年齢は取材時の2015年現在
–