「消された信仰

ー最後のかくれキリシタン 

長崎県・生月島の人々」 広野真嗣

もう15年前ぐらいになるのかな。

取材で行った長崎平戸で、かくれキリシタンが

祈りを捧げていたという小屋を覗いた。

部屋に入った途端、体中が震え涙が止まらなくなった。

仏様を模したマリア像、傷だらけの十字架、

目に入る全てのものに

反応してしまい、どうしようもなくなった。

以来僕の前世は「かくれキリシタン」だと思ってます。

悪友は、「違う。お前の前世はキリシタンを迫害した

役人のほうだ。 だから罪の意識で泣くのだ」

と言ってますが。

まぁそれはいいとして(笑)、とにかく僕は以来、

15年間ひとりで全国の

隠れキリシタンの郷を訪ね歩いているのです。

当然関連本も相当数読んでますが、今回の本は別格でした。

2018年に長崎は、「長崎と天草地方の潜伏キ

リシタン関連遺産」として、 世界遺産に登録されました。

ただこの中に、最後の隠れキリシタンといわれた

「生月島」の 名が消されているのです。

‘それはなぜなのか。彼らの祈りの歴史は無視されたのか。

その真実を追求するのがこの作品で、

小学館ノンフィクション大賞を受賞しています。

作品によると、一般的に隠れキリシタンと

呼ばれるものには 迫害から身を守りひたすら

信者を続けた「潜伏キリシタン」と 、

生月島のように時代が変わっても和洋混合の

独特なキリスト教を 信じる人々がいる。

彼らのことはあえて「カクレキリシタン」と区別する

風潮が強くなっている。

世界遺産はその背景に物語がないと認められない。

どんな迫害にあっても神を信じ続けた

「潜伏キリシタン」の 関連施設のみ世界遺産にする。

したがってその物語に該当しない「生月島」の名は

消されてされてしまった。

でも著者はそれはおかしいのではないかという。

「弾圧を受けてもひたすらキリスト教を信じた

人々という 意味では生月島の人々も同じだ。

確かに独特の宗教ではあるけれど、

その思いを長崎県が受け止めず、もはやなかった

ようなものにするのには

大きな違和感がある」と訴えています。

その通りだと僕も思います。

近々、生月島、また行こうかな。