第百六十九回芥川賞受賞作 「ハンチバック」

市川沙央

初めて好きになった女の子が

ハンチバック(せむし)だった。

7歳ぐらいだったと思う。

二人手をつないでる写真が今でも残っている。

僕は覚えていないが、両親に

「この娘を一生僕が守る」と言っていたそうだ。

あの娘がもし小説を書いているとしたら……。

読後中、ずっとそんなことを考えていた。

主人公は、親が残したグループホームで暮らす

重度障害者、井沢釈迦。

彼女は自らをせむしの怪物と呼ぶ、

湾曲した背中と気管切開した喉(のど)を持つ

40代の女性。

親の遺産で金には困らない釈迦は、

エロな話を食い扶持にしているライターで、

稼いだ金はすべて寄付している。

いやー、このキャラには参りました。

文章のひとつひとつが胸に刺さるのだが、

おもわず笑ってしまう毒さ加減が癖になる。

たとえば、こんな文章。

<中絶がしてみたい>

暫く考えてみて、そのツイートは下書き保存する。

(中略)炎上しそうな思いつきは取り敢えずここに

吐き出して冷却期間を置くのだ。

<妊娠と中絶がしてみたい>

<私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう>

<出産にも耐えられないだろう>

<もちろん育児も無理である>

<でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。

生殖機能に問題はないから>

<だから妊娠と中絶はしてみたい>

<普通の人間の女のように子どもを宿して

中絶するのが私の夢です>

当たり前だと思っている元気な身体は、

当たり前じゃない、と彼女は中指を立てる。

この文章にもやられた。

厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて

没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に

負担をかける。

私は紙の本を憎んでいた。

目が見えること、本が持てること、

ページがめくれること、読者姿勢が保てること、

書店は自由に買いに行けること

ー5つの健常性を満たすことを要求する

読書文化のマチズモを憎んでいた。

その特権性に気づかない「本好き」たちの

無知な傲慢さを憎んでいた。

曲がった首でかろうじて支える重い頭が

頭痛を軋ませ、内臓を押し潰しながら

屈曲した腰が前傾姿勢のせいで地球との

綱引きに負けていく。

紙の本を読むたびに私の背骨は少しずつ

曲がっていくような気がする。

無知な傲慢。僕も間違いなくそのひとりだ。

読書することをこんなに大変に思う人が

いるなんて。

いやー、知らなかった。

多様性などと軽く口走る己を、この小説は

せせら笑い、毒づく。

とんでもないストーリー展開にも驚かされて、

エンタメとしての面白さも内包しているから

一気に読んでしまった。

ただ僕にはラストシーンがよくわからなかったので、

理解できた方にお話を聞いてみたい。

しかしすごい小説家が現れたものです。