学んだのは、信用を大切にする姿勢~中央町老舗100年物語④森印刷

5代目 森一観さん

18世紀半ばから19世紀にかけて起きた産業革命で、大きな発展を遂げたもののひとつに印刷業がある。

時代の風を受け、当時最先端だったこの産業に注目したのが森印刷の創業者、森正平さんだ。

正平さんが八幡の折尾で印刷業を始めたのは、大日本国憲法が発布された1889(明治22)年。今から126年前のことだ。二代目は喜一郎さん。

三代目を継いだ寿之吉さんは、兄弟6人の全てに印刷業を薦め、折尾、門司、若松、博多などで店舗を展開していった。

森印刷が折尾から製鐵所で賑わう中央町に移転したのは、1912(大正元)年のことだった。製鐵関係はもちろんのこと、行政などの伝票類を中心に店は発展していった。

四代目の森憲治さんが継いだのは、1932(昭和7)年。五・一五事件や第一次上海事変などが世間を騒がせた年だ。

文房具店も始め、うなぎの寝床のようだった店は表で文房具、裏で印刷工場を営んでいた。

「うちは男4人、女4人の8人兄弟だったから、親父は子供のために朝から晩まで一生懸命働いてましたね。子どもには優しい人で、怒られた記憶がないんです。仕事も丁寧に教えてくれましたね」

と語ってくれたのは五代目、森一観さん(80歳)。

少しでも父を助けようと、兄弟力をあわせて子どもの頃から、活字を拾う作業やカード類の印刷、運搬などを行った。


一観さんは長男ということもあり、中学を卒業しすぐに印刷の世界へ飛び込んだ。教育に理解のあった父は、家業をともにしながら一観さんを定時制の高校、北九州大学の二部で学ばせた。

機械の音と印刷のインクの匂い、そして父の背中。自転車に印刷物を乗せ、親子二人で懸命に働いた。「親父から学んだことは、信用を大事にする姿勢です。誠実で真面目な人でしたからね」と一観さん。

しかし懸命に働く親子を悲劇が襲う。1945(昭和20)年の八幡大空襲だ。旧八幡市の中央町から桃園にかけて焼夷弾が投下され、瞬く間に市街地が焼き尽くされた。罹災者52,562人、死傷者は約2,500人にのぼる。

森印刷も住居店舗ともに焼失したが努力を重ね、1948(昭和23)年に事業を再開。1946(昭和39)年には八幡西区穴生に印刷工場を建て、生産の主力を移し中央町を営業用の店舗とした。


一観さんが店を継いだのは、メキシコオリンピックが開幕し川端康成がノーベル文学賞を受賞した1968(昭和43)年だ。一観さんはいう。

「親父が65歳で死んだ年でした。借金もあり兄弟も多かったので、長男として家を守っていかなければ、森印刷をつぶしてはいかんと必死でしたね」

父親から受け継いだ誠実さで店を発展させ、1990年代には小倉、黒崎の井筒屋に出店もした。

地域貢献にも熱心で、消防団の団長や老人会の会長として中央町を盛り上げてきた。それだけに町に対する思いもひとしおだ。

「少し前に比べれば商店街もちらほらだけど、新しい店も出てきた。ぜひこの機会に町おこしをやって欲しい」

現在会社は、長男の森栄一郎さん(48歳)が六代目として切り盛りしているが、80歳になった今でも、「団長さん」の愛称で親しまれてきた一観さんの町に対する思いは熱い。

※年齢は取材時の2015年現在