「涙の区間賞」~有馬啓司(八幡大付)の闘志②

レースはほぼ、八幡大付監督・酒井寛の予想通りに進んだ。

藤野がトップから14秒差、3連覇を狙う優勝候補の報徳学園(兵庫)からは9秒差の6位で2区につなぐ。

3区では一時、トップに立つなど報徳との間で一進一退の攻防を繰り広げ、アンカーの有馬啓司がタスキを受けた時、報徳の西尾康正は80メートル先にいた。

その積極性を買われてアンカーに抜擢された有馬は、スタート直後から迷うことなくピッチを上げ、3キロ過ぎには西尾をとらえた。

だが、どうしても引き離せない。

それでも有馬は歓声と悲鳴の交差する西京極陸上競技場に先頭で入ってきた。

しかし、ゴールテープを最初に切ったのは西尾の方だった。

「最後の100メートルで勝負をかける」と冷静に道中を耐えてきた小柄なランナーは、最後の直線で爆発的なスパートを見せ、拳を突き上げてゴールに飛び込んだ…。

約2キロ、時間にして6分弱にわたって繰り広げられたデッドヒート。多くの名勝負の中で、あのレースの印象が生々しいのは、闘志をむき出しにして走り続ける彼に、現代社会で次第に失われつつある男の闘争本能というものを見たからだろうか。

その激走があまりに強烈だったがゆえに、彼の走破タイム14分34秒が区間新記録(当時)であったことは、あまり知られていない。(おわり)

報徳学園・西尾選手と競り合う八幡大付の有馬選手(右)

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この記事には、ほろ苦い思い出がある。

執筆にあたっては有馬さんに当時の話を聞こうと思い、彼が当時勤めていた会社の電話番号を調べ、取材を申し込んだ。

しかし、有馬さんは取材を渋った。「今は仕事中なので…」ということで一度電話を切り、その日の夜、自宅に電話をさせてもらい、改めて取材を依頼した。それでも「もう昔のことなので」と応じてもらえなかった。

僕は、その頑なな態度に戸惑い、同時に焦った。話が聞けないと、記事が書けない。その後も電話口で粘ったが、有馬さんの返事が変わることはなかった。

高校卒業後、社会人でも陸上を続けたが、故障などもあって思うような成績を残せず、現役を退いたと噂で聞いていた。その辞め方が不本意だったのか、もう陸上のことには触れてほしくないという強い意思を感じた。全国高校駅伝の区間賞という栄光でさえ、もう終わったこととして自分の中で決着をつけていたのかもしれない。

それでも僕は、このレースのことをどうしても書きたかった。監督の酒井さんに取材をして、記事にした。

本人が触れたくないと思っている過去に触れ、雑誌で掲載することが果たして正解だったのかー 

その答えは、20年経った今でも出ていない。