来なかった夏 ~鵜川兄弟(山田高)の情熱①

青森県の深浦高校をご存知だろうか。

1998年、夏の全国高校野球青森大会で0-122という記録的なスコアで敗れたチームである。最後まで試合を投げ出さなかった深浦高と、手を抜かずに全力プレーに徹した東奥義塾高の試合は「美談」として新聞やテレビで大きく取り上げられ、反響を呼んだ。

その1週間前、福岡大会でも0-50の大差で敗れたチームがある。その高校では慢性的な部員不足に悩まされ、かき集めた部員も夏の大会が終わればひとり、ふたりと去っていく状態がここ数年続いていた。

試合が終わった後、監督はうつむくナインを前に言い放った。

「お前たちは今年もセミのように消えていくのか?」…

◇  ◇  ◇

「福岡ドームのグラウンドに立ちたくないや?」

その年の5月、山田高校野球部の監督に就任したばかりの井川剛史は部員集めに奔走していた。4月に野球部を引き継いだ時、部員はわずか3人。「本職」として顧問を務めていたバスケットボール部のインターハイ予選が終了し、ようやく野球部の指導に本腰を入れようとした時、夏の大会は2カ月後に迫っていた。

全選手が集う合同開会式は前年から福岡ドームで開催されるようになっていた。いい記念になるぞ、という井川の誘い文句に、入学したばかりの1年生など9人が入部してきた。

中学時代の野球経験者は4人。基本練習から入らねばならなかった。練習試合も満足に組めない中で、バスケットボール部などからかき集めてきた混成チームを相手に試合をした。

結果は大敗。「僕たちが出た方がマシやない?」という言葉が胸に堪えた。

それでも全員が練習に揃うことは、滅多になかった。「福岡ドームで入場行進ができればいい」。試合のことは深く考えず、サボりがちな部員たちを、井川が半ば強制的にグラウンドに連れ出す日が続いた。

7月11日。福岡ドームでの開会式。思い出に残るはずの晴れ舞台はしかし、厳しい現実に直面する場でもあった。

がっちりと逞しい体格の他校の選手たち。ほとんどのチームもベンチ入り可能な20人を揃えている。整然と行進する彼らの先頭には、プラカードを持ったマネージャーがいる。それらが大会への「参加資格」というのなら、山田ナインはそのうち一つとして資格を満たしていなかった。

「場違いなところに来てしまった…」。うつむきがちに行進を続ける選手たち。そうした彼らの心情を井川もまた、スタンドで痛いほど感じていた。

言い知れぬ不安が、井川を包んでいた。(つづく)