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1992年のバルセロナ五輪を皮切りに5大会連続で五輪に出場し、金2銀1銅1という輝かしい成績を残した「YAWARAちゃん」こと谷亮子選手。この物語は、その彼女の高校時代の指導者である園田義男さんにスポットを当てたものです。
取材は2001年で、すでに谷選手は前年のシドニー五輪で悲願の金メダルに輝いており、時の人でした。
園田さんは当時、柔道部の監督であると同時に福工大城東高校の校長代理という要職にありましたが、柔和な笑顔で出迎えてくれました。
取材は畳の香りがする柔道場内にあった教官室。私のつたない質問に、嫌な顔一つせず答えてくれたことを思い出します。
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まだあどけない顔をした田村(現姓・谷)亮子が福工大付属高校(現福工大城東高校)柔道部へ入部してきたのは、1991年4月のことだった。
彼女の場合、同校柔道部を指導する園田義男のもとへの「入門」と言ってよかった。
地元福岡から世界レベルの選手を輩出するという強い熱意で園田に引き取られた田村は、前年の福岡国際女子柔道選手権で優勝しており、すでに日本柔道界の期待を一身に背負う存在だった。
「この子を歴史に残る選手にしたい」
世界選手権金メダリストというかつての栄光が記憶の中で色あせつつあった園田にとって、久々に感じる熱い胸の高まりだったに違いない。
…
田村の練習法については、入部が決まった時からマン・ツー・マンによる指導が不可欠であると弟の勇と確認していた。
勇はモントリオール五輪中量級の金メダリストで、息子も通っていた東福岡柔道教室で早くから田村に目を付けている。田村の福工大付への入部は、彼の進言も進言も大きく影響した。
世界の頂点を極めた兄弟は、自らの身体を田村にぶつけていくことで、その技に磨きをかけることができると確信していた。
だから田村は高校時代、団体戦にはほとんど出場していない。地元で開催される高校柔道界のビッグイベントである金鷲旗大会にも、3年時に思い出づくりを兼ねて参加しただけだ。
一方で園田は福工大付柔道部員を預かる指導者でもあった。結果的に田村一人を特別扱いすることが、他の部員にどういう思いをさせることになるのか。その葛藤に苦しんだ。
だが園田は、田村の個別指導を優先した…。(つづく)
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