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プロ野球選手を夢見る二十歳の青年は、一通の手紙を書いた。
相手は日本ハムファイターズの大沢啓二監督である。
南海、阪急の入団テストに落ちた彼は、プロになる最後の望みをその手紙に託した。
果たして返事が来た。
葉書には大阪球場のナイター練習に来るように、と書かれていた。野球用具一式をバッグに詰め込み、内定していた会社の入社式に出席したその足で大阪に向かった。
昭和53年のプロ野球開幕前夜のことである。
…
長田(おさだ)博幸は小倉で生まれ育った。
小学3年生の時、父が友人と鉄工所を共同経営することになり大阪へ。高校は大阪府立高専に進学し機械工学を学んだ。
ゆくゆくは父のの鉄工所を手伝うつもりでいたが、会社が倒産。家族は離散を余儀なくされ、長田自身も姉夫婦のもとに身を寄せた。
この時期、長田は野球を心の拠り所にして日々を過ごした。
甲子園を目指した昭和49年夏は、大阪府大会の2回戦でPL学園に敗れたものの2-5と善戦した。5年生の時には全国高等専門学校野球大会の近畿大会で優勝。全国大会でも3位という堂々たる成績を残した。長田は4番捕手として活躍、主将としてもチームをまとめた。
チームメイトが就職活動を始めるようになっても、長田だけはひそかにプロへの道を目指していた。夢を叶えたい一心で入団テストを受けたが不合格。その後、大手自動車会社から内定をもらった。
その会社には野球部もあった。しかし何かが違う。
年が明けて各球団のキャンプやオープン戦が始まると、その気持ちはさらに強くなった。
「親分」の愛称で親しまれ、人情家と言われる大沢監督なら…。何度も書き直して、ようやく便せん一枚の手紙を書き上げた。
…
球場で大沢に会うと、大きな声で挨拶をした。
グラウンドに出るとブルペンで球を受けてみろという。50球ほど受けた後、長田は監督室に呼ばれた。結果はどうであれ、チャンスを与えてくれた大沢への感謝の気持ちでいっぱいだった。
部屋に入ると大沢は口を開いた。
「おまえ、ファイトはあるのか」
唐突な質問に驚いたが、すぐに答えた。
「はいっ、誰にも負けません」
当然だ、とばかりに大きな声で返事をすると、大沢は頷いた。
「よし、それなら合格だ」
その日のうちに契約を結んだ。
あまりの急展開に、長田は信じられない気持ちで球場を後にした。…(つづく)
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