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信じられない人がいる
ある日突然海馬脳炎という病気に
なって倒れた。
「今度のライブ、高坂さんにお願い
しなさい」
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翌朝妻から電話がかかった。
「あのね、マスターがね、再来月の東京からの
ジャズライブ、高坂さんにお願いしたいって」
涙混じりで半分何を言ってるわからないまま
電話が切れた。
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僕は彼らと知り合ってまだ二ヵ月ぐらい。
戸惑いながら店に駆け付けた。
「どういうこと?」
ママは言った。
「私もわからない。でもプロデュースを
高坂さんにお願いすればいい、とマスターが」
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しついこようだが、知り合ってまだ二ヵ月。
そんなに親しくない。
でも仕方ないから、料亭を貸し切り、客を集めた。
総勢100名。満員だった。
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そんな一連の出来事をマスターが退院したときに
話した。
彼は言った。
「ごめん、覚えてない」
’
つい最近、そのマスターは入院した。
足がとてつもなく腫れ、悪い腫瘍の恐れあり。
しかし彼、痛くも痒くもない。
心配して僕は駆け付けた。
マスターは無事退院していた。
「大変だったね」
声をかける僕に、
「ごめん、覚えてない」
’
イヤな記憶がよみがえった。
彼が鍼灸師の資格を取り、マッサージ店を
開いたときのことだ。
僕は少しでも足しになればと連日通った。
いつもわずかに凝りの残る、半端な治療だったが、
そこはご近所、言葉にはしない。
可愛い女の子が助手として働いていたし、
雰囲気は悪くなかったし。
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彼が海馬脳炎で倒れたのは、店がちょっと軌道に
乗り始めた矢先だった。
退院後、マスターが言った。
「マッサージ店を開いた1年あまりの記憶が全くない」
「可愛い女の子がいたことは?」
「それは覚えてる」
’
マスターは目が見えないせいもあり、隣にいつもいる
ママは出会ったままの20歳だし、娘は小学生の
イメージで止まっている。
そう、イヤなこと、つらいことはすべて忘却の彼方なのだ。
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どうせなるなら、海馬脳炎。
僕はいま、この言葉を呪文のように唱えている。
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