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何度読んでも飽きない、数ある小津本の中でも群を抜いた一冊。
著者は「東京物語」で助監督をつとめ、監督として三本の映画を撮り、のちに直木賞作家になった。彼が原節子、岸恵子、杉村春子のエピソードや撮影秘話を描いたのだから、面白くないわけがない。
でもこの本の一番の魅力は、映画の名場面を深く考察し、ファンに改めて小津の凄さを教えてくれるところ。
いろいろ引きたいところはあるんですが、長くなるので、とりあえず、著者が実際に聞いた小津の言葉をランダムに紹介します。
映画は「東京物語」。
笠、東山の尾道の家で東山の死の場面、山村聡、杉村春子、香川京子、原節子、全員がひとつのシーン。各俳優陣の演技に火花が散る。そのとき、小津は言う。
「みなさん、お上手で結構だ。上手なばかりでなく、テストの度に違う芝居を見せてくれる。そりゃ有難いんですがね、どうだろう、一番良いのをひとつきりで結構ですからやって見てくれませんか」
小津はわかりやすい演技を嫌う。口癖は、
「わからせようとするのは下衆だ。ああ、そういうことですかよくわかりましたと客が思った時に、客は離れる。感動も薄れて二度と食いつかない」
「映画の人物というのは、懐に、なんか刃物のようなものをのんでなきゃ駄目なんだよ。確かに刃物がある。それがどんなものか、いつ抜かれるのか、客はわくわくしながらそれを待ってくれるのさ」
「映画の終わりが、実は始まりなんだ」
最後に僕の小津体験を少し。
初めて「東京物語」を観たのは高校二年の時だった。
最初の感想は「なんじゃ、こりゃ。変な映画」。
台詞を言うたびに切り替わる顔のアップ。妙におしゃれな日本家屋と登場人物たち。古き良き日本を描いているという話は聞いたことあったが、僕は違うと感じた。なんだか外国人が撮った日本みたいだと思った。
後年、この本を読んで僕の直感は正しかったと嬉しくなった。
高橋治は記している。
小津は最も日本的な作家だと短絡して考えられることが多い。観客のみならず、批評家の間にもこの見方は定着している。
だが、それは大きな誤りだと私は思う。
小津は一見非常に日本的だが、実は大変西欧的だ。画面を埋める日本趣味の小道具や衣装に幻惑されては、小津の真の姿は見えて来ない。
「秋刀魚の味」の老いを凝視する姿勢、「晩春」の親子関係をつき破っても愛を打ちあけようとする女の執着、「麦秋」の家族関係のそれぞれの立場で噴き出してくる自我。
それらを残酷なまでに描いて見せる作家精神は、日本的と呼ばれるものとはおよそ対極にある。
小津ファンなら絶対におすすめの一冊です。
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